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■2003年9月18日発行号
▼夜間労連もどき( 9月12日)
連合傘下で有力産別である自動車総連の中にある日産労連は、一昔前、夜間労連と言われていた。当時は、自動車労連の名称だったが、選挙となると昼夜を分かたず運動を展開されていたから、こう自他共に名付けられていた。
当時、自動車労連組織外の候補者が自動車労連の推薦を受けると、専従者が何人か派遣され支援体制を組んでもらえたが、会議は必ずと言っていいほど、夜の9時や10時頃に設定された。こうなると当然、仕事が終わって解放されるのは真夜中となる。皆ヘトヘトになっていたが、若さがあったから私もついていけたのだと思う。
埼玉7区の民主党総支部では、衆院選候補選定の為、いわば地域での事実上の予備選が行われたが、今は参院補選の準備活動にそのまま活動が継続されている。運動の主体は候補予定者の島田ちやこ事務所と、私の事務所スタッフが合体した形となっている。平均年齢が24〜25才位で、連日のように真夜中から明け方までの作業が続くが、若さがあるからできることなのだろう。
私も時折、真夜中の仕事に付き合うこともあるが、もうついていけない。同年齢でなら、多少、体力に自信もあるが、このところ私はスタッフの若さを見せつけられ、へこんでいる。夜間労連はもう私自身としては、卒業させてもらいたい。
▼穂積隆信著「積木くずし」娘さん本人の死( 9月13日)
もう20年も前になるのだろうか。出版されると直ぐに買って読んだ。家庭内暴力の衝撃的内容だったが、私には2つの疑問が当時からあった。1つは、子供が非行に至る本当の要因が書かれていないのではないか、ということ。2つには、この出版を娘さん本人は理解の上で納得していたのか、ということであった。
第1の疑問は置いておくとしても、第2の点は、出版した当時、確かまだ10代の真っ只中であった筈で、出版の社会的影響や自身に降り掛かってくる様々な圧力までは、いくら親から話されていたとしても、現実感を持てなかったのではないだろうか。私も職業柄、教育についてスピーチしなければならない場面があるが、わが家の事例を挙げて話す時は常時、子供(長男と長女)がここにいて聞いていても受け入れてもらえることに限定して話そうと意識している。我が子の赤裸々な話は、他人の興味を惹くが、我が子と言えども人格は別なのだから、一定の節度は必要、という考え方を私はとっている。
“積木くずし”はベストセラーとなり、印税に止まらず、その後の講演の依頼は大層なものだったと聞いたことがある。おそらく講演料は30万円を下ることはなかったろうから、経済環境は激変していったことだろう。そして講演の内容も意識的に、より刺激ある表現がなされていったのかもしれない。人生に於ける時間の使い方で、家庭の団らんをとるか、経済収入の多い講演を優先させるか、といった二者択一を迫られることも多くなっていったのだろう。そこに何かしら新たな家庭環境の激変があった事は、容易に想像できる。
反抗期を迎えた子供と親との葛藤は、誰しもがもがき苦しんできた筈だが、それぞれの家庭、それぞれの子供によってその形は千差万別だろう。親に手を上げるまではいかなくても、物を投げつけたり、損壊させたりといった事象は当たり前で、少なくとも大声で親子が怒鳴り合い、ののしり合うことは誰しも経験しているに違いない。要は節度、程度の問題ということだろう。
あまりに傷ましい積木くずしの顛末には、私など他人の入り込めない深い闇が漠として横たわっていて、とても多くを語ることなどできはしない。モデルとなった本人の死があるのだから。
▼同時多発テロから2年( 9月16日)
9.11ニューヨークの同時多発テロから2年が経過した。あの日、ゼンセン同盟全国大会の前日で、私は札幌にいて、数人の先輩同志の皆さんと談笑していたが、急に駆け込んできた書記局の方から第一報を知らされた。最初、何のことやら俄に理解できなかったが、すぐにホテルの自室に戻り、テレビを視て漸く事態をつかむことができたのを昨日のことのように記憶している。今、明日のUIゼンセン同盟大会に出席するため、大阪に来てホテルの一室でペンを走らせている。
死者2792人を数えた世界貿易センタービルに旅客機が突入していった映像が今年も又、放映されていたが、私が理解できないのは、「何故、又、同じ所に超高層の商業ビルを建てようとしているのか」と言うことだ。日本でだったらそんな事が可能だろうか。エコノミック・アニマルなどと、一昔前さんざん世界から批判されたが、私はとても、同じ場所に経済活動の拠点となるような建物を築造するという気持ちには、日本人ならなれないのではないだろうかと思う。
慰霊碑の建造はもちろん、テロの撲滅と世界平和祈念の為の広場として、あの場所はポッカリと空けておくべきでないのか。世界中の平和活動家や宗教家が今から立ち上がれないだろうか。3000人近い人々が一瞬のうちに非業の死を遂げた所に、同じようにアメリカ経済の拠点を再建することは、あまりに、あるものに挑戦的過ぎる気がする。亡くなった方々の御霊もそれを喜ぶのだろうか。私には不吉な思いがしてならない。
▼埼玉県知事選挙<5> ( 9月17日)
候補者のプロフィール(坂東真理子氏)
坂東真理子さん。・・・・・・。何と書いたら良いのだろうか。
8年前、初めて県議会の議場でお会いした。自分の認識としては、私はフェミニストで、女性の感性を知覚している数少ない男の1人であると思い込んでいる。しかし同時に、手厳しく女性を客体視する男でもある。
差し障りがあるので個人名は出せないが、多くの女性活動家の人々に、私は自分なりに「平均的には、車の運転と政治家としての能力は、男性の平均値よりも低いのではないか」と軽口をたたいたりしてきた。具体的には判断力、決断力、包容力、大局観、理念や逃げない闘争心などの事だ。「男女の種々の差異は根源的なものであるとは必ずしも思ってはいない。モラトリアム(猶予期間)を置けば、きっと違いなどはありはしないのだろう」との私見も併せて述べてきたが、女性リーダーから論理的、本格的な反論を今日まで受けたことはない。その猶予期間がどれ程かも言っていないが、国政の現場にいて当初、思っていたよりも長い時間をもう少し要しそうだとは思い始めている。但し現実には、男女を問わず個人差が大きく、「え〜?」と思う男や「スゴ〜イ!」と思う女性がいる。
“坂東真理子”さんの名は、お会いする以前から、川越の女性活動家、敬愛していた今は亡き、川辺早恵子さんから聞かされ続けてきた。だから、埼玉県議会議場の副知事席に座っていた坂東さんを見る私の眼は、多分、他の県議とは違っていたことだろう。埼玉県議会は本会議中心の論議で、質問と答弁のほとんどは事前に打ち合わされているので、坂東さんの答弁も、知事を始め他の執行者と同様に、エリート県職員のつくった答弁を読むという形になっていた。しかし、確か最後の県議会だったと思うが、答弁原稿を離れ、自民党県議の坂東さんに対する個人批判に対して、真っ向から立ち向かう答弁を、身体を震わせ顔を紅潮させて、堂々と反論していたのが極めて印象的だった。それは彼女の逞しい根元的な力のように私には思えた。その判断が今も私は間違っていたとは考えていない。
坂東さんは、選挙が終わり、細川県連代表とは電話がつながらないという事で、県連窓口として川越の私の事務所にご挨拶に来られた。複雑な経過の中で、細川代表と私の誠意が充分に伝わってのことだと思うが、様々な思いを持っての来訪だったに違いない。細かく書くことはできないが、当然、選挙の四方山話があった。
帰路、最寄りの東上線上福岡駅へ私がハンドルを握った。あの人は車のドアを開け、「それでは・・・」と言って、降車の位置から5メートル程のエスカレーターに乗り、自ら歩くことなく昇降機に進行を委ねた。両足を揃えた不動の姿勢は、次に拡がる自己の人生への決意を私に示しているようにも見えた。濃紺の麦わら帽子を深くかぶった様は貴婦人のようであったが、上福岡駅までの道中、私の車が娘の車とすれ違ったらしく、「お父さんの車を見たよ。あのきれいな人は誰だったの」とのメールが娘から届いた。後部座席ではなく、助手席に乗って頂いたので、娘は心配したのだろうか。私は1人苦笑した。
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