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■2003年4月10日発行号
▼臨終の空間
(4月8日が義母の一周忌であり、昨年、書き留めたものを、この際掲載させて頂くこととしました。)
5月12日に祖先の眠る秩父郡大滝村に埋葬する、わが家の仏間に安置してある義母の遺骨の前で今、ペンを走らせている。田舎の墓は家の敷地内にあるが、山の緑に包まれた森閑とした所で、妻の祖父が奉職していた三峯神社の懐に抱かれる程の位置にある。年に3〜4度、夫婦で、時に1人でここに墓参しているが、その度に寝たきりになった義母に報告すると、いつもとても嬉しそうに「ありがとうね」と言ってくれた。義父が亡くなって11年になるが、ずっと墓参を続けてこられたのも多分、義母の喜ぶ顔を見たいが為だったのかもしれない。山根家の墓は東京の玉川上水なので1日に2ヶ所の墓参は困難で、秩父の墓参は春秋のお彼岸の時期をどうしても外れていたことに申し訳ない思いは残っているのだが、義母は全く意に介してはいなかったように思う。
連れ合いの義父が亡くなってからは、生きることの意義を見出せないようでいた義母は「もう何時、旅だってもいいのよ」と口癖のように言っていたが、それがこの1年程は、次第に死への願望に変質していってしまった。私は悪戯に「天国のおじいちゃんだって都合があるかもしれないよ。今、おばあちゃん(義母)が逝ってしまったら騒動になっちゃうよ。おじいちゃんは男前だったし、あの世で若い綺麗な人がいるかもしれないじゃないですか。」と言ったら、しっかりと「あの人はそんな人ではありません」とピシッと言われてしまった。「これは大変失礼しました」と義母の部屋を笑いながら辞してきたことがあった。義父母は些細な言い争いをしながらも、夫婦仲はとても良かった。義父の享年も義母と同じく91年だったのだが、死の直前まで東京の住まいに自らロープを張り、つかまり乍ら自力で厠に身を運んでいた頑張りには頭が下がったが、義母も寝たきりになってからは、そんな義父の姿を思い出しながら、不甲斐ない自分の身体に一層、死への願望を強めていったのだろう。
それでも人への気遣いは最後まで変わらなかった。死の1月前まで肺にたまった水を抽出するために凡そ2ヶ月の入院生活を余儀なくされたが、看護婦さんがオムツ交換をしてくれる度に、多少の呆けもあって「カツ丼でもとってやって」などと妻(娘)に言っていたという。義母は我々にもわがままを言う人ではなかったが、早く退院して家に帰りたいとは何度か口にしていた。7人の子供達には、私に伝言をするように病室でそれぞれに遺言めいた事を語った。ごく当たり前のことを言ったに過ぎないが、私には「いつまでも謙虚さを忘れないで仕事に頑張って下さい」と言ってくれた。私への遺言としては、一瞬ピンとくるものではなかったが、きっとじっくりと考え抜いてくれた上でのメッセージなのだから、素直に受け入れさせて頂こうと思う。きっといつか我が身を振り返る時に、その意味を改めて噛み締めることになるのかもしれない。
日めくりカレンダーが破られる毎に、声も弱々しく見る見るうちに義母の身体は痩せていったので私は死期を覚悟したが、医師は「気力の問題だけですよ。退院したら気分も変わって回復します。死ぬなんて状態じゃありません。」と私たちを励ましてくれた。きっと医学的には、客観的に見てそういう状態だったのかもしれない。妻は、衰弱ぶりに、ある日病室で落涙してしまったそうだが、義母は「泣いたって仕方ない事なんだよ」とすっかり死を覚悟したかの様子だったという。愈々、退院して自宅療養となったが、介護センターから来て下さる介助の人達にも、妻に目配せをして湯茶の接待をするように促していた。しかし食べ物も水も次第に口にしないようになっていき、意識も遠のき眠るような時間が長くなっていった。私は自分の父の最期の時も医師に「延命措置で植物人間にしないで欲しい。痛みや苦しみは、何としても除いて欲しい。」と2つの事を要望したが、義母についても、同様の話をした。介護センターから紹介して頂いた医師も私たちの気持ちを理解してた上で、酸素吸入器を持ち込むなどして懸命の医療を施してくれた。朝晩問わず連日の往診には、ただ頭の下がる思いだった。
私は独断で死の2日前に親類に、もう数日の生命かもしれないと妻に一斉に連絡をとるように指示した。医師は死期について「こればかりは何とも言えませんが、私だったら同じ行動をとります」と私の決断に首肯してくれた。次々と子や孫が耳元で大きな声を出して呼びかけると、黄泉の国への道中から慌てて戻るように、かろうじて反応してくれたが、私にはそれが義母の頑張りのようで痛々しく、『もういいんじゃないか』と思うようになっていった。
2日間に亘り半ば意識が無くなりかけていた時、義母は両手を泳ぐように回していたが、それがどんな意味なのか知りたくて私は義母に、そっとしておくべきと思いながらも「おばあちゃん、苦しいの」と聞いてみたら、首をしっかりと横に振った。「けだるいの?辛いの?」と更に聞いてみたが再び首を横に振った。最後に「気持ちいいの」と聞いたら首をしっかり縦に振ってくれた。私自身、臨死体験や20才前後には何度か霊的な体験もしているので義母の臨終の空間には特別な思いもあり、死に至る数日間、様々な質問を試みさせてもらったが、意識も薄くなっていく中で必ずしも私の全ての質問に答えてもらえた訳ではなかった。特に義父やご先祖の御霊のお迎えについて質してみたが反応はなかった。しかし、私のいない時、義母が合掌する姿を見て妻が「何が見えるの」と聞いたら「神様」と答えたという。妻はあの神様の意味は「お世話になった人達への感謝の言葉」と理解しているが、私は素直に、義母の見たものはまさしく神といおうか、何か霊的に秀でた、ある存在だったのではないだろうか、そう思いたい。
4月7日午後8時20分、義母は深い呼吸を何度か重ねた後、長女、次女、七女(妻)、私と私たち2人の子供が看守る中で美しく息を引きとった。臨終の部屋の空間を凝視したが私は何も見ることはなく、ただ静かな穏やかな死がそこにあるだけだった。
義母が去って漸く落ち着きを取り戻したわが家で、21才になる息子と18才の娘が、それぞれ異口同音に別々の折に私たちに「俺(私)、(親の)面倒をみるから」と語ってくれた。
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