■2002年02月14日発行号

▼永年議員の特典は廃止の方向( 2月10日)

党の国会改革ワーキングチームの役員会に参議院側を代表してピンチヒッターで出席した。
議員報酬の1割カット問題について協議し、私からも具体的な提案をさせてもらった。ワーキングチームの結論を党の上部機関で協議して正式な党の決定となるので、今、その詳細を書くことはできないが、賛成であることは論を待たない。

その他、衆議院の各党代表により正式に協議されている事項とし て、25年、50年在職の議員に与えられている種々の特典の見通し問題があるが、廃止の方向で話が進められている、という報告があった。
但し、予算を伴わない表彰等は残ることになりそうだ。


▼田中真紀子さんの写真( 2月11日)

所用で越後湯沢へ行った。新幹線で関越トンネルを抜けると、いきなり雪景色の中に入り込んでしまった。川端康成の小説「雪国」の冒頭にある「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」を実感した。

湯沢の街中を散策していたら、土産物屋の入口に、大きめの額縁の中に一葉の写真が飾られていた。額の脇には細長くカットした画用紙に「田中真紀子さんの中学生時代」と書かれたものが立てかけられていた。
のぞき込んでみると、亡父の田中角栄さんが側近を何人もしたがえて街を闊歩(かっぽ)している隣りに、白黒写真ではあるが、恐らくは夏の陽差しで眩しいほどの白さに違いないセーラー服姿の真紀子さんがにこやかに歩いている写真であった。
自信に満ち満ちた父親の傍らにあって、どんな思いでいたのだろうかと様々に想像を巡らせてみたが、あの写真に真紀子さんの原点を垣間見たような気がした。


▼大学生同士の話し( 2月12日)

お隣りの部屋ということもあって、大仁田厚議員とはおしゃべりをする機会も多いが、大仁田さんは明治大学の現役学生で、私も一応埼玉大学の学生という立場である。
地下道を議員会館から院内(議事堂)へ向かう途中で「数学と英語が大変でしょう」と聞いたら、数学はともかく、「英語は7年、アメリカにいたのでしゃべれるんです」とのこと。ヨーロッパにも数年暮らしていて、英語には、十分、自信を持っているようで、とても羨ましい限りだ。


▼フセインに対するアメリカの本音( 2月13日)

「国際問題に関する調査会」で、日本貿易振興会の酒井啓子研究員の話は興味深いものだった。アメリカは本気でイラクのフセインを倒そうとはしていない、との指摘は私も全く同感だ。特に今回のアフガン攻撃とその結果を見ていると、軍事的にも政治的にもイラクへの攻撃は、敢えて中途半端なものとしているように思えてならない。「アフガンの次はイラクだ」とアメリカは言うが、恐らくは、フセインを倒すには至らないだろうと思う。
イラクの国内での反政府勢力では、イスラム勢力が一番強く、2番目が共産主義勢力なのだから、フセイン政権は依然として、よりマシな政権、という見方をアメリカはしているのだろう。


▼父親のこと( 2月14日)

今日、2月14日は父親の19回目の祥月命日である。
以前メルマガで、近々、両親について書いてみたいと記したが、いざ書こうとすると思い出が生々しく、やはり書けないな、という思いでいた。いつものように仏壇の過去帳をめくって就寝しようとしたら、そこに父の法名が目にとまり、明日(今日)が祥月命日だと知り、ペンを走らせる義務を感じた。

父は7人兄弟の末っ子であるが、私の女房もそして私自身も7人兄弟の末っ子であり、私は、父親56才の時の子供である。参院選挙の演説会場などで冗談混じりに「父親が最後の力を振り絞って私を創ったのだから、私には国家改造という大事業にも耐えられる体力がある」と訴え、大いなる喝采を受けたものだ。
実家は栃木県栃木市だが、納骨に当たり市役所から謄本を取り、調べてみると、私の祖父などは坂本龍馬とそんなに年齢が離れていないことに気付いて愕然とした。幕末から明治維新という時代が私の手の届くところにあったという感覚は嬉しかった。明治25年3月23日が父の誕生日だが、同年には金さん銀さんがいる。確か西尾末廣先生もいっしょだったか、1つ違いか位だった。

父は酒好きで、私の幼年期には酒屋で知り合った見ず知らずの人を連れてきたりしていた。厳しい経済生活を日本中が強いられていた時代だったから、困り抜いた人を見ると我が家の家計も火の車だったに違いないが、誰彼となく世話をしていた。いつも我が家には知らない人が寝泊まりしていて、兄弟は家には居ず、私は事実上1人っ子として育ったのだが、寂しさはなかった。
物静かであまり笑わない父であったが、母に先立たれ私と2人だけの生活が10年続いた中で、私の冗談に大きく笑ったことがある。
「お勝手を掃除しておけ」と言われたので少し乱暴な言い回しだったが、思い切って「勝手にしろ」といってみた。これが父に大受けした。1分近くも笑い続けていたのはこれが最初で最後だったと思う。

私が結婚した時、父は87才でかなり足が弱くなっており、どこへ行くにも妻が毎日、脇に手を差し入れるようにしてついていたが、2年もするとほとんど寝たきり状態となってしまった。老人の世話で1番大変なのは元気な痴呆人の徘徊だが、我が家ではこの経験がなくて済んだのは幸いだった。下の世話は悪臭が辛いが、直に慣れてくるものだ。妻と2人共同作業で何とか乗り越えられたが、夫が、自分の親の世話を妻1人に押しつけるということは悪徳といえるだろう。
酒の大好きだった父は老衰で大往生だったが、求められて妻が死の3日前に与えた吸い口の焼酎の味はさぞかし格別であったことだろう。



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