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■2005年6月30日発行号
▼国会見学( 6月24日)
県内の小中学校から国会見学の依頼があり対応させて頂いている。その際、私が挨拶に出たり、シャシャリ出て行く事はない。私自身、小学校の時、学校の都内見学で国会見学をしたが、その時の印象は今でも鮮明に残っている。子ども達には、人の話よりも建物から受ける印象や独特の空気を感じとってもらえれば良いような気がする。
国会見学は、学校や団体、あるいは個人や数人のグループ規模と様々だが、初めての方にとっては、強烈な印象が記憶に刻み込まれる事が多いのではないか。先日、友人のご母堂が北海道から上京され、事務所のスタッフを付けてご案内させて頂いたら、「戻り次第近所のお友達に報告します」と喜んで頂けた。そして態々、心のこもった礼状がご母堂(82才)と娘さん(57才)から届き、恐縮してしまった。
他日、大学のゼミからのお申し込みもあり、見学の後、会議室で質疑・応答の時間を持った。予定時間の1時間を大幅に上まわる1時間40分を費やすことになり、若い人とのやりとりが楽しかった。質問は、政策面では少子高齢化、福祉など色々。この他、政治家となったきっかけ、選挙に勝つ為の方法等、幅広い質問を頂いた。
▼参議院公報( 6月25日)
毎日、衆・参両院の公報が、議員会館の各部屋にポスティングされていて、翌日の本会議や委員会・調査会等の日程が掲載されている。この日程で気を付けなければならないのは、実際とは異なる場合があることで、形式上は掲載するが、会議は実は予め開かれない事や、時間が最初から遅延する事が判っている場合がある。
委員会には、必ず担当大臣が出席することになっている。衆議院での本会議が終わってから参院の委員会を開く場合などは、定刻の10時開催と掲載しておくことになる。又会期延長を決める日になると、会期末に行なわなければならない継続審議の手続きなど、形式的な委員会を予めセットするために、公報上掲載しておくということもある。本音では、多数決で会期延長されることは判っていても、それを前提に形式的措置を省くことはできない。
私は国会議員になって初めてじっくりと国会の公報を見たが、両院の公報の記載の形式は、私が秘書をしていた頃の27年前と全く変わっていなかった。先ず本会議の開会、次に委員会・調査会の案内、委員の移動が告示され議案の両院間での送付状況等々が記され、最後に“広告”として各党内の会議開催の案内が掲載されている。
掲載されている会議の数は、やはり大きな会派ほど多くなっているようで、6月22日の公報では、自民党10、民主党 9、公明党 4、共産党 2、社民党 1となっていた。
▼3年前のカレンダー( 6月26日)
娘は嫁いでも、家が近いので毎日のようにわが家に来ていて、2階にある自分の部屋は、家具等もそのままにしてあって使い勝手も良いからだろうが、しょっちゅうそこで寛いでいた。しかし子供が生まれてからは、2階には登らず、下の居間か和室で時間を過ごしているので、彼女の部屋はもう半年程、誰も入っていない。
廊下を隔てて突き当たりが息子の部屋だが、その長男は、4月から社会人になり、3ヶ月程中期の出張で富山へ出て行ったので、部屋を覗いてみたら、布団まで富山へ持っていったようだ。まるで引っ越しでもしたように彼の部屋はガランとしていて、急に広がった空間が、私には淋しく感じられた。
その日、無聊だったので、隣のもう開かずの間になっている、亡き義母の部屋のノブを廻して中に入ったら、ほとんど物置き状態になっていた。壁には、平成14年4月のカレンダーが掲げられていた。義母が他界したのは、平成14年4月11日である。
この3年でわが家の環境は激変しているのだが、今日まで特に感慨に耽るような事はなかった。しかし、改めて小さく仕切られた2階の各部屋を眺めてみて急に家庭環境の激変、そして、時の移ろいを感じさせられた。
▼差し入れ( 6月27日)
炎天下で、拉致家族の皆さんの座り込み活動が、議員会館前で行われ、マスコミでも大きくとり上げられた。24日から3日間の座り込みだったが、初日は東京都議会議員選挙の告示日で時間がとれず、翌日、選挙応援の合間、激励に行かせて頂いた。
2日目だったのでマスコミ関係者も少なく、激励に訪れる議員とも会うことはなかったが、驚いたのは、座り込みをされていた方々の数が、私の予想していたイメージをはるかに超えていたことだった。私は拉致家族の皆さんだけの行動と思っていたので、10名程ではないかと予想していたのだ。
午後、都議選応援から電車で国会へ激励に向かう車中で、猛暑だから、国会に着いたら、近くの酒屋さんでアイスクリームか缶ジュースの差し入れをしようと考えていた。しかし数百(マスコミ報道では500人)の単位となると大仰だし、埼玉県の人達もおられると、公選法の関わりも出てくるので、予定を変え声をかけさせて頂くだけにした。
ほとんどの方に「あ〜どうも」と反応して頂いたが、見知らぬある老婦人の言葉は厳しかった。「激励なんていいから、もっとしっかり、小泉さんに経済制裁するようにやってくれなきゃだめじゃない」というお叱りだった。政治家は結果が勝負だから「わかりました」と頷くしかなかったが、拉致家族の皆さんを支援する人々は皆、一様に苛立ちがあるのが、痛いほど私自身も解った。
相変わらず、テレビ報道などでは「経済制裁については、効果が薄いのでは?」などと解説するコメンテーターもいるが、その論拠は私の眼には、憶測の域を出ていないし、政治的な意味合いを全く無視した見解だと思う。“拉致問題”が風化されないよう、私生活の経済的困窮にも耐えつつ、運動を影で支える無私のボランティアの人々に、改めて敬意と感謝の念をを捧げたいと思う。
▼久闊( 6月29日)
帰路、もうかなり夜も遅い時間になっていたが、東上線の車中、大方の乗客は座席に座る事ができる程の空き具合だった。
私は眼をつぶり、うたた寝をしていたが、急に、私の顔面に衝撃が走った。重いカバンが棚から落ちてきて、私に当たったのだ。多少反っ歯な造りになっているからだろうが、唇の上というか、鼻の下の部位に、ずしんと直撃された形だ。その衝撃の反動で後頭部も窓ガラスにドーンとぶつけてしまった。一瞬、何事かと混乱した。
カバンの持ち主は、しきりに「大丈夫ですか」と私に聞いてくるが、口内に痛みがあり、じっとそれには答えずに暫く耐えていた。心の中では「大丈夫です。」と言っておくのがよいのか「ちょっと痛かったですね」位のことを言おうかと迷っていた。
すると「あ〜山根さんですね」と逆に言われてしまった。顔を上げると、近隣の市議会議員で、私の知己でもあるA氏だった。もうこうなると「いやいや、大丈夫ですよ」と言わざる得なかったが、帰宅してからは、後頭部の小さな瘤を触りながら、切れた口内の傷を、舌で舐めて自分を慰めるしかなかった。
A氏とはもう1年程会っておらず、妙な形で久闊を互いに繕い合った。
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