■2004年8月12日発行号

▽原爆が広島に投下され59年。犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。( 8月 6日)

▼渡辺利昭元埼玉県議の死を悼んで( 8月 6日)

ご尊父が地元・朝霞の元市長であり、素封家の長男として伸び伸びと自由奔放に大らかに生きられた人だったと思う。自分の信念に忠実で、言うべき事を言い、やるべき事をやる、といったタイプだった。典型的な保守系の政治家だったが、自民党の公認問題が複雑で、最初の県議選は無所属の出馬だったと記憶している。その後、自民党県議団の分裂騒ぎを経て、自民党県議団の役員となっていかれた。

私は支持も支援もできなかったが、渡辺さんは思うところがあって県議を辞し、市長選に出られ惜敗された。そして昨年の知事選では、上田現知事の選対責任者として陣頭指揮を執り、当選に大きく貢献された。知事選後、病に倒れ、入院生活を余儀なくされて大手術も受けられたが、頑固に外部からのお見舞いを拒否されていた。それでも私は知人に頼み、見舞のタイミングを窺っていた。漸く退院の数日前に病室に伺うことができ、かなり長時間、話し込むことができた。内容は政治の話ではなく、患われた病気のことばかりだったが、元気に饒舌に話されていた。あれからまさか1ヶ月で急逝されるとは、とても考えられない程、健康を取り戻されていたように見えていた。術後の回復を過信し、海釣りに行って無理をしたのがまずかったのではないかと話してくれた人もいたが、渡辺さんらしい最期だと思えないこともない。

個人的には、6年前、県議会の海外視察でオーストラリア、ニュージーランドをご一緒してから、私にとって身近な兄貴分のような気分を持たせて頂いていた。平成10年4月28日。成田空港に集合してみたら、雪駄に和服姿の渡辺さんが「ヨオッ〜」と声を掛けられてきたのには度胆を抜かれたのを、今でも強い印象で憶えている。若い頃の武勇伝(?)も聞いているので、その姿を見て直ぐに自分で得心したが、後で他の先輩議員から話を聞いてみると、海外に公式訪問の時、意識的に和服を着られているという。そして、ご自分なりに研究をして、正装を整えていたのだそうだ。

8日間の全日程を通じて、その風貌とは違って、細かな団員への心配りに止まらず、事務局員へも痒いところに手の届くような気遣いは、実に見事だった。政界の仲間や後輩への世話活動はもちろんのこと、人知れず多くの困った人々、弱者への労りは群を抜いた人であった事が、あの通夜の長い行列で立証されていたように私は思った。


▼論議を避ける怪( 8月 7日)

臨時国会が6日、閉会した。私は総務委員会に所属し、理事の大役を仰せつかり、今後1年間、委員会の運営、舞台づくりの仕事を担うこととなった。しかし、スタートから私には大変、不満の残る理事会協議の結果だった。

今、郵政事業の民営化問題、更にマスコミを賑わしているNHK不祥事の問題など喫緊に論議しなくてはならない課題があるのだから、1日でも委員会で一般質問の機会を作ってはどうかと私は提案したが、自民党は審議を事実上、拒否したのだ。理由は、郵政事業については今、政府内で調整、協議しているところで、責任を持ったお答えができない。そして、衆院でも委員会審議を9月(臨時国会、又は閉会中審査のこと?)に決めているのだから…ということであった。

そこで私は、郵政民営化問題は、政府案がまとまり決定される前にとことん議論して、問題点を浮き彫りにさせる事に意味がある筈だと主張した。又、今、二院制が論議されている時期だからこそ、論議しない事を衆議院に合わせる必要はない、と発言したが、通らなかった。官僚から、国民の代表たる国会に政治の実権を取り戻す為にも、自民党は逆に野党を活用すれば良いのにと私は思う。自民党の方針を現場の理事は踏襲するしかなく、大変なのは解っているが、敢えて発言させてもらった。


▼訪韓で感じたこと( 8月 8日)

7月20日から23日まで、韓国を私的に訪問した。釜山から慶州、そしてソウルというルートで旅したが、ソウルには数年前、1度しか行ったことがなかったので、韓国の、地方によって異なる風景や空気を味わえて、旅情を満喫することができた。

特に新羅という国名で栄えた慶州の、大地に融和するような低く広い構えで点在する家屋の数々は、古(いにしえ)の時代を静かに物語ってくれていた。各地の歴史的な建造物は、無言に多くを語らずにいて尚、確かな歴史の厚みを厳として私に示してくれていた。そして寺院に眠る木版に彫られた夥しい写経の古文は1字の誤りもないという通訳の話も、韓民族の文化の高さを胸を張って私に誇っているようでもあった。

中国、韓国、そして日本と伝えられてきたアジアの各地から集積されてきた文化・文明を、21世紀に新たな形で華開かせるには、寛容の精神、孔子が説き続けた思いやるという“恕”の心は不可欠だと思う。特定の国家を名指し続けて批判した教育からの解放には、従来なら、最低50年の年月が掛かろうが、情報化時代という未曾有の時代に在って、その時間は少しでも短縮されることを切に願いたい。

アジアカップでの中国の騒動も心を痛めたが、一方では、日本と韓国によるワールドカップ共催によって芽生え始めた日韓両国の若者の共感を、期待を持って思い起こさずにはいられない。


▼種子島久代 草加市議の藍綬褒章受章( 8月 9日)

昨日8日、受賞記念パーティーに出席した。昭和53年11月初当選だから、54年3月統一選組の私と、市議会議員としてはほぼ同期ということになる。7期連続当選とのことで、選挙に伴う苦労も大変だったろうと思う。特に、家族の抑制された地域での振る舞いは、ご主人にとってもさぞ窮屈でなかったか。本人の名誉は議員である事で充分な筈で、こうした受章は明らかに、家族と支援者の皆さんに与えられたもののように思う。

3年前、自分の参院選でのスピーチの中に時折、私は半ば冗談で、「私の父は56才の時に最後の力を振り絞って私を創り上げました」という表現を使ったことがあった。これを聞いて種子島さんは、「私の父は73才で私を創ったのよ」と言ってこられた。「本当ですか」と俄に信じられなかったが、昨日のスピーチで改めて「私の父は明治5年生まれです」と語っていた。私の父は明治25年生まれだから20才も上の方で、彼女の年齢を数えると計算は違っていない。

更に、「市議選出馬は、私の意志ではなかった。どうしても、やらざるを得なくなり、自分の心の整理をする必要に迫られた時、父が町議選に出て敗れた時の悔しそうな顔をしていた記憶が、まだ10才に満たないにも拘わらず残っていて、そのリベンジで挑戦しようと考えてみた」といった意味の事を話されていた。そのご尊父は、娘・種子島久代さんの受章を、天から真に喜んでおられるだろう。おめでとうございます。


▼荻原健司新議員との雑談( 8月10日)

ノルディック複合の金メダリスト、荻原健司議員に議員会館地下でエレベーターを待っている時、出くわしたので、ミーハー気分で声を掛けさせてもらった。

イメージより小柄で多分、身長は170cm位だろうと思うが、先ず、体重はどの位かと聞いてみた。「61〜62Kg位です。」本会議場でお見受けした時、かなり華奢に思えたので、この質問は機会があったらしてみようと、実は前から考えていたのだ。更に荻原氏は、「これでも現役を離れてからは、筋力が衰えてきて、少し脂肪が増えてきました」と言う。

悪戯に私から、「裸を見てみたいですね」と言ったら、2人の会話にそっと耳を傾けていた周りの議員から、笑いが漏れた。変な趣味は全くないが、鍛え抜かれた男の生身の肉体を眼の当たりにしてみたい、という位の願望なら私にもある。自分の肉体の改造計画達成への覚悟に、弾みがつくかもしれない。因みに来年の夏、富士山登頂の目標を今年の正月に私は掲げた。


■今週号は、都合により1日早い発行とさせて頂きました。