■2004年11月11日発行号

▼イスラエルとパレスチナ(11月 7日)

前にも書いたかもしれないが、1964年の東京オリンピックの閉会式をテレビで観ていて、目頭が熱くなり感動した事を今でも覚えている。私が16才で高校2年の時である。生真面目な日本人の演出が壊れ、各国ごとの入場が急に崩れだしたと思ったら、もう無秩序に選手が勝手に入場し、思い思いに歩き始めてしまったのだ。しかし、それが却ってこの上もない融和を醸し出し、観る者に感動を与えた。そしてあの時、私はジーンとした衝動の中で、『世界平和は可能だ』と確信した。

あれから40年、戦争や大量殺戮は相も変わらず繰り返されてきたが、私のあの時の確信は、今でも微動だにしていない。韓国人や中国人の日本への憎悪は、政治指導者の思惟に因る側面が大きく影響していると思うが、それ以前の私たちの行為そのものは、深く自省しなければならないだろう。日中、日韓に横たわる憎悪は60〜70年前のことであるから、政治家の長期的視野に立った先見性、英断で、大きく好転させることは、そう時間の掛かることでもないのではないか。

一方、イスラエルとパレスチナ間の憎悪を過去数千年単位で考えて、和平は不可能と語る人もいるが、私は決してそんな事はないと思う。現実の諸相は全て人間の心がつくり出しているものだから、人の心を寛容や忍耐に変えれば、現象は見る見るうちに融和の形を整えるに違いない。

先般、宿舎が隣で、議員会館も同じ7階である民主党の同僚議員、榛葉賀津也議員が大きな力を傾けてやっているイスラエル・パレスチナ・日本の子ども達による親善サッカーが成功裡に終わり、私の事務所に礼状が届いた。文中に、子ども達に感動させられたエピソードが沢山あった、と書いてあったので、ホームページ(http://www.pks2004.com/)を開いて読んでみたら、嬉しい記述があった。

サッカー大会が終わり子ども達が帰国して間もなく、イスラエルでバスの自爆テロがあったが、パレスチナの子ども達からサッカーで知り合ったイスラエルの子ども達に、安否確認の電話が多くあり、イスラエルの子どもの親達は、今までならとても考えられない事と感動したそうだ。

公平な情報や、お互いを思いやるメッセージが国民に直接届くようになれば、そして貧困を一掃できたのなら、中東の和平は私は絶対に可能だと思う。1枚の礼状が私に又、和平への勇気と自信を与えてくれた。


▼県連 細川律夫代表の辞任(11月 9日)(1)

今日9日に締め切りが迫っていた民主党埼玉県連次期代表選に、細川現代表が立候補するのか否か、ギリギリまで私も判らなかった。留任か辞任かは本人が望めば、そのどちらも可能だった。力ではなく、細川代表は人柄、徳によって県連の運営に努めてきており、県連役員からの信頼は絶大なもので、代表自身の動きを皆、固唾を呑んで見守っているという感じだった。

6日夜になっても何の動きもなく、私への連絡もなかったので、まさか県連代表選挙の締切日さえ忘れているのではないかとの心配が私に生まれる程、“静”に細川代表は徹していた。6日深夜、痺れを切らして私から細川代表に電話を入れた。「もうギリギリですよ。どうされるのですか。出られるとしたら、少し引っ張り過ぎと思われるかもしれませんし、新しい人に、という思いなら、もし意中の人が急に事情が変わって断られたら、時間が足りなくなりますよ」と話させてもらった。

しかし、細川代表は自身でも考えた上でのことだったようだ。つまり、結論を早く明かせば、9日の締切日までに揣摩憶測が飛び交い混乱することを危惧していたのだ。細川代表らしい気遣いだった。しかし、その時でさえ、はっきり去就を明言せず、8日、夕になって県連事務所で初めて私に本心を明かした。あくまでも口重く堅い細川流を最後まで見事に貫いたと思う。

私から1ヶ月程前、細川代表を東京で呑みに誘った。細川代表が留任でも辞任でも、県連党務から離れ、国会で政策に力を入れていきたいという思いが強くなり、私は幹事長職を辞すつもりだと、改めて伝えるための会談だったが、細川代表の本音を聞きたいという狙いもあった。そして、私から去就について進言させてもらおうと思ってもいた。県連や私にとっては留任が有難いと考えたが、細川代表自身にとっては、今期限りの勇退が清々しい形での幕引きだとズバリ申し上げたかったが、とうとう私ははっきりした物言いはできなかった。

昨夜、いつ勇退を決意したのですか、と聞いたら、「東京で呑んだ折、幹事長から中央での活躍を期待したいと言われた時だ」と話され、返す言葉がなかった。これで良かったという気持ちと、本当にこれで良かったのかという思いが交錯して心臓が圧迫されたが、もう賽は投げられた。

県連結成から今日まで、細川代表の心が安まる日々が訪れることは、あまり無かったのではないか。旧政党間の融和、財政の確立、党勢の拡大とキリがない程、課題は山のように積まれていた。それらを1つずつ解決すると又、別の課題が次々と眼前に現れてきたが、持ち前の粘りと忍耐で、時代の応援もあり、細川代表が今日の県連の隆盛を築いたと思う。

時を待つ忍耐、断固たる決断、そして人の苦悩に心を配る人情は、政治家として高いレベル領域にあることを内外に示していたと思う。5年程、細川代表に親炙して、多すぎる程のものを私は学ばせてもらえた。


▼中国へのODA(11月 9日)(2)

町村外相が参議院の外交防衛委員会で、中国へのODAについて「そろそろ卒業に近付いた」と答弁したという情報が届いた。これは私と親しい自民党の山谷えり子氏の質問に答えたものだったが、政府も国会内外での見直し論に漸く耳を傾け始めたようだ。

私もアメリカで創刊した、世界各国に居住する華人向けの新聞・大紀元時報から取材を受け、中国へのODAは見直すべきと話させてもらったばかりだ。日本の援助が中国国民に意図的に知らされていないということ。そして、日本のODAで建てられた建築物の竣工式に、日本への謝意が全く述べられなかったということ。更に、日本からODAを受けながら、中国自身は他国にODAを行っているという矛盾。これらの事実から、もう中国への支援は止めるべき、というのが私の主張であるが、私の主張はもう多数派を形成する程のものになっているのではないか。

一部政治家や官僚の、中国へのいびつな思いが、世界的に見て非常識な行為をわが国が重ねてきた主な要因だろう。


▼民法改正の中身(11月10日)

今日の参院本会議で、民放の一部を改正する法律案が全会一致で可決された。参議院の先議だから、衆議院で可決されて初めて成立するが、全会一致なので今国会中には成立する見通しだ。これは、民主党が力を入れてきた法案で、保証人になった為、全財産を失うという事例が後を絶たないので何とかならないか、と党内でずっと議論し、与党をも巻き込んで、改正に漕ぎ着けたものだ。

所管は法務委員会なので、論議には直接関わらなかったが、法案は根保証契約について極度額(限度額)と元本確定期日を設ける、又、民法を国民に理解しやすいものとするため、法文を現代語化するという内容となっている。

極度額は双方で合意した金額を契約書に明記するのだが、その額に上限はない。党内の法務委員(弁護士)に具体的な限度額を法案に入れ込めなかったのか聞いてみたら、法理論として難しい、という指摘もあるとの事であった。後は政令に入れるという方法もある筈で、更なる法案改正の余地はまだ有りそうだ。党としてはベストではないけれど、取り敢えずベターで1歩全身を果たした、ということだと思う。根保証の額は、例えば年収を基準にしたり、資産を基準にしたりといったことにすれば、極端な悲劇は避けることができるのではないだろうか。

私の身近な人達が何人も、保証人になったばかりに全財産を失っている。彼等は友情や仕事の取引上、断ることができなかったと異口同音に語った。方今(ほうこん/現在)1日24人の人が経済的理由で自ら命を絶っているが、これで少しでも抑止できる効果が出れば良いが…。


▼ニンニクを食べた翌日(11月11日)

臭いが翌日に持ち越すので、大好きでもニンニクは日程を見ながらでないと食べないようにしているが、抑えきれず食してしまうことがある。そんな日は、就寝前にブレスケアーを頬張るのだが、それでも翌朝、臭いが消えずにいることもある。食べた量が多すぎた為だが、そうなると、もう1度ブレスケアーを呑み込んだり、リステリンで口をゆすいだり、口臭止めのスプレーを使ったりと忙しくなる。

最後まで臭いが残っていそうな時は、なるべく口を開かないようにしている。無口な私に出会った時は、そういう訳ですから。