■2003年12月4日発行号

▼マニフェストとフェミニスト(11月28日)

とうとう言ってしまった。マニフェスト選挙が流行りだした時から、いつか間違えてしまいそうだと事務所のスタッフへ冗談に話していたのだが、とうとう現実となってしまった。先輩議員の要請があり、関西に応援に出掛け、衆院選の真っ只中、個人演説会場で堂々と2度も「このフェミニストにしっかり書いてあります」とやってしまったのだ。登壇前、フェミニストと間違えないようにしよう、と意識したのがかえって災いした。冊子を掲げて、多分、私のことだから得意気に演説していたことだろう。

県議会議員時代、ある議員がディズニーランドのことを、デニーズランドと言い違えた。本人は、他の議員が自分の声を議場でよく聞き取れなかったのだろうか、と考え違いをしたようで、今度は大きな声で「デニーズランド」とやってしまった。結局、自分の間違いに最後まで気付かなかったわけだが、私も全く同じ間違いをしたことになる。

他人のことを笑っていると、いつか自分も同じ目に遭うという戒めだろう。そう言えば、“猫のヒタイほど”という表現も、「額」とはずっと思っていなかった。結婚して間もない頃、「うちの庭は文字通り猫のヒタイ程の広さだな、それにしても猫の死体という表現は変だよな」と言ったら、「どうして?」と女房が聞くので、「だって縁起、悪いじゃないか」「あなた勘違いしてない。死体じゃなくて頭の額なのよ。」31才になるまで、「猫の死体」とずっと思い込んでいたが、聞いている方は「ヒ」と「シ」を正しく発音できていない、と考え過ごしてくれていたんだろうと思いたい。


▼自衛隊のイラク派遣(11月29日)

今、何故イラクへの派遣なのか。アメリカのラムズフェルド国防長官が来日した時、必ずしも日本に自衛隊派遣を米国は求めていなかった。にもかかわらず小泉総理は胸を張って派遣を滲ませていた。俗っぽく言えば、カッコつけているように私には思えた。これで米国への公的な約束事と事実上、なってしまった。私は迂闊だったと思う。一国の総理として軽過ぎはしないだろうか。

“テロとの闘い”というのは、手短な武力でそう解決できるようなものではない。短期、中期、長期に分けて、じっくり取り組んでいかなければならない。アメリカの行為の背景と奥には何があるのか、中東諸国とアメリカの関係はどう築かれて来たのか、その変遷。そして数100年単位の歴史。何故、テロが後を絶たないのか。その原因を真につかまなければ、根本解決は難しい。中東各国に駐在している日本の外交官は、生命懸けで汗を流している。総理は一切の偏見を棄てて白紙から、現地大使などの意見に率直に耳を傾けてみて、真の解決策を考え、まとめ上げ、その対応策をアメリカと一緒に協議してみたらどうだろうか。

このまま、自衛隊を派遣したら、取り返しのつかない事態を惹起するのではないか。唯々諾々というよりもむしろ、アメリカから期待もされていなかったものを、安易に言の葉に乗せたことは国益を忘れた、へつらい以外の何者でもない。もう自由主義か共産主義かといった単純な選択の時代ではなく、国際環境の入り組んだ複雑さの中で国益を守り、追う時代に突入している。小泉総理には党派を超え、自重を促したい。


▼「世界の中心で、愛をさけぶ」片山恭一著 小学館発行を読んで
                         (12月 1日)

中学生から始まった恋愛を高校生で終結させた小説で、私自身の感覚をその時代に合わせてみるのが難しかった。奥手だった自分には、何とも羨ましさが前に出てきてしまって、様々な恋の場面を照れ臭くって受け止めきれなかったからだ。

物語としては、白血病で、美しい少女が10代で亡くなっていくのだから、37〜38年前に大ベストセラーとなった「愛と死をみつめて」の小説版といったところがある。主人公の朔太郎が恋に悩む中、気の合う祖父から、自分のかつての純愛を聞かされるシーンがある。お互いに思い合っていたけれど、性的な交わりもないまま、ついに結ばれることができなかったという話だ。しかし、これが昔話でなく今でもプラトニック・ラブとして続いている事を主人公は聞かされる。そして、生きていれば70才を越えている彼女の眠る墓から、2人で遺骨の一部を抜き取ってくる。祖父の純愛と進行中の主人公の恋愛をうまく絡めた構成となっていて、著者の小説づくりの工夫が功を奏している。

ただ、いきなり最期の章で既に祖父が亡くなっていたり、主人公に新しい恋人ができていて、彼女との語らいという形でこの小説をまとめ上げたのは、失敗だった気がする。一読者としては、まだ元気なおじいちゃんの純愛と、白血病で亡くなった彼女への、傷ましい余韻が残っている中では、この場面転換は、不自然に“喪失”を過剰演出してしまったように思える。

過日、親類で法事があり、故人ゆかりの人達が集まったが、その折、知人の1人から思いがけない話を聞かされた。私が東京の早稲田に住んでいた、まだ幼年期の頃、私の竹馬の友たちの親である近所のAさんとBさんが恋仲になっていたという類の話だ。いつの時代でも変わらない男女の艶っぽい彩りが織りなす人間模様が、親たちの世代でも極く普通に、電気がショートするように時折火花をパチッパチッと放電させながら演じられていた事に、妙に時代を超えてある種の親近感を覚えた。

本書に不自然に登場し、不自然に亡くなっていた“おじいちゃん”は私に様々な思いを抱かせてくれた。


▼「永遠の途中」唯川 恵著 光文社発行を読んで(12月 2日)

奥付で著者の年齢を見て、「あ、やっぱり」と思った。この小説を書き終えたのは47才の時だ。著者が主人公を通して同世代の感覚をそのまま小説に書いているので、素直で読み易かった。

同期で入社した2人の違ったタイプの女性を中年期まで著したもので、1人は家庭の主婦へ、1人は未婚を貫きキャリアへと歩んだ中で起こる様々な出来事を、対照させて交互に描いている。

内容は、人生に意欲的な女性にとって、変わることのない、女性であるが故に背負わなければならない、理不尽な負担等がテーマだ。タイトルは編集者が主唱して付けられたのか、著者自身の発案に依るものだろうか。私は著者より若い編集者が、著者を説得して付けたものと思いたい。何故なら、もう47才という年になっているのなら、人生の先にある死を視野に入れておいてもらいたいと思うからだ。確かに同じことの繰り返される人生ではあるのだけれど、小説に登場する2人の主人公は50才程の設定ともなっている。だから、人生のまとめ上げ方を考えるとすれば「“永遠”の途中」というタイトルは、私にはうなずけない。

でも、本書は、女性の気持ちが痛い程伝わってくる良い小説だ。