| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 閣議の中身につきましては毎回閣議の結果を記者会見しておりますけれども、イラクの問題に関しまして、私はそれぞれの閣僚いろんな気持ちを持っていると思いますけれども、これはやはりそれほど活発なそれぞれの意見を開陳するという場面はなくて、むしろそれぞれがいろんな考えの上に立って、全体を見通しながら今回の総理の決断というものを見守っているというふうに思います。
私自体も、イラク問題について特に私自身の考えを閣議で明確に述べたということはございません。
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| 山根隆治 |
| それでは、大臣御自身が総理及び、同性ということもございますが、川口外務大臣に対してこのイラク問題について御発言あるいは御進言なさったことはございますか。
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| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 外務大臣とは閣僚の席も隣でございますし、私自身はトルコにいたというふうなこともございまして、トルコ情勢等について若干の意見交換をしたということはございますけれども、日本政府としてどういう対応をすべきかということについて明確な意味で私の方から進言をしたとか、そういう場面はございませんでした。
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| 山根隆治 |
| 実は、三月の十一日でしたですか、女性国会議員有志四十二名による小泉総理にイラク攻撃反対の申入れというものをされました。この中には与党の女性議員も入っておられました。自民党から一名、与党議員もおられました。公明党、保守新党からは残念ながら参加者、賛同者というものはおらなかったようでございますけれども、その四十二名が、平和を希求する、強く希求する女性の感性というふうなこともあろうかと思いますけれども、その総理への意思というものを表明されたということが実はあったわけでございます。
そういう意味で、私は、また男性閣僚と違った視点で小泉総理にイラクの子供たちや女性たち、そうした無辜の人々への思いというのはまた別の私は感性がおありだったのではないかというふうに思うときに、やはりそれなりの進言というのは私はしていただきたかったというふうなことが少し今の御発言の中からは残念な思いがいたします。
しかし、ここは公的な場でございますから、遠山文科大臣の私はお人柄からして何らかの形でいろんな御発言は私的にはなさっておられたんだろうというふうなこともそんたくをするわけでありますけれども、公式なお話としては少し残念な思いも若干残るわけであります。
さて、私、昨年トルコ、シリア、レバノンそしてエジプトの中東地域を訪問させていただきまして、院の派遣でございましたけれども、各国の外務大臣、指導者と会談することが、そういう機会を得ました。そこで一様に各国の中東の指導者が言っておられたのは、フセインはけしからぬ男だということで一致しておりました。しかし、アメリカが一国の主権というものをじゅうりんするということについて断固私たちは反対していくんだ、こういうふうな見解を一様に指導者の方々が述べられていたのが非常に印象的でございました。日本にいて中東問題を考えるときには、アメリカ発あるいはヨーロッパ発の情報というのが非常に多くて、感覚的に日本にいて少し私自身もずれがあったかしらという思いがしないわけでもございません。
大臣は、平成何年でしたですか、トルコ共和国の大使もされていたというふうに承知いたしておりますけれども、中東の人々の思いというのをまた別の角度から恐らくお持ちなんだろうというふうに思いますけれども、そうした経験の中から、今回のイラクの問題、また別の感覚があれば、政治的な判断とは別に、その思いを少しお述べいただきたいと思います。
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| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 確かにトルコに三年余駐在いたしておりまして、初めてイスラム圏に住んだわけでございまして、イスラムというものについての勉強を随分させていただきました。
これはキリスト教の文明の知的体系とはまた異なった、宗教的な意味を持つ、そういう人々の心情の中にかなり宗教というものが重要性を占める地域でございます。しかしながら、国家を構成する人々のほとんどはイスラム教でございますけれども、イスラム教の中にもいろんな宗派もございます。そして、トルコの場合には比較的穏健なスンニ派でございますけれども、イラクの場合にはそうではなくてシーア派というのがかなり占めていたりいたしまして、同じイスラム圏の中におきましても、その宗派なりあるいはその宗派を通じて得る人々の行動規範というのもかなり違いますし、その拘束力も違うというようなことはございます。様々にイスラムの文明の成り立つ、よって立つところのものを学ばせていただきました。その意味で、恐らくあの中東地域の人々の同じイスラムの信者たちの中にも様々な考え方があるというのも事実でございます。
したがいまして、今のイラクの政権についてどうイスラム圏の人たちが考えるかというのは、かなりそれぞれの国によって違っていると思います。宗教というものの共通性が必ずしもその国の在り方そのものを決めていくわけでございませんで、やはりその国の、その国についてリードしていく、あるいはその国の成り立ちについて責任を持っている人たちのリードの仕方によって国家の在り方も違ってきていると思います。
したがいまして、イラクを構成している多くの人々とその周辺の人々の庶民の感覚というものは共通性がかなり多いものでございますけれども、やはり国の在り方という面におきましては、それぞれの国の政治形態といいますか、そういったものが非常に国の、何といいますか、存立についても影響しているしということでございまして、庶民の気持ちとそれから政治をつかさどる人たちの心情とが一致している場合と、そうでない場合ももちろんあるわけでございます。
そんなことで、ここではもちろんはっきりとはなかなか言いかねるわけでございますけれども、あの地域を本当に理解するということは大変難しい作業であるなというふうにつくづく感じているところでございます。
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| 山根隆治 |
| いろいろな思いというのがひしひしと伝わってきまして、いいお話を聞かせていただいたと思います。
さて、第百五十六回国会における文部科学大臣の所信というのはこの間表明がございまして、私もこの席で聞かせていただくと同時に、何度か読ませていただきました。その中で一つ注目した言葉が私自身にございまして、それは知の世紀という表現でございました。知識の知でございますけれども、冒頭のところにその文言がまず出てきて、その後も、「科学技術・学術の振興」の中で「「知」の創造と活用に向け」という文言がございました。知の世紀等の発信したところがどこかということは言葉としては私も分かりませんけれども、いずれにしても、このことに注目をしたというのは、ここにいろいろな私は意味合いがある、これからの二十一世紀の教育を考えていく上で知というものは何なのかというところの私は認識を是非お尋ねをしておきたいと思います。
もし二十一世紀が知の世紀という御認識、そうあるべきだという御認識であったとするなら、十九世紀、そして二十世紀は知の世紀ではなかった。そこを峻別されているとすれば、どのようなイメージで知の世紀ということを表明されたのかどうか。御自身の今まで文部行政に携わってこられたいろいろな施策の中で、きっといろいろな理念もお心の中にあろうかと思いますけれども、その理念に絡ませて、知ということの意味合いということについてお尋ねをしておきたいと思います。
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| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 知の世紀という言葉を、御指摘によりまして、今所信を見てみますと確かに何度も出てまいります。これは私といいますか文部科学省の発明した言葉ではございませんで、実はかなりこの言葉といいますか、二十一世紀が知の世紀であるということについては広く用いられ始めております。
一番最初に、知といいますか、知識というものがこれからは一国の社会なり世界の経済なりというものを考えていく上で大変大事だということを言い始められたのがピーター・ドラッカーではないかと思います。知識社会というものの持つ意味というものについて非常に創造的な出版物を出されたというふうなことが一つのきっかけであろうかと思いますが、それ以降も、日本でも知価社会でありますとか、知という言葉を使ったたくさんの言葉がございます。
行政上も、そういった知の重要性ということを前提にしまして、知の世紀であるとか、あるいは大学は知の集積体であるとか知の拠点であるとかということで最近使わせていただいております。それは、二十世紀までの間は言わば知識というものが価値を持った、もちろん価値を持つわけでございますが、知識を使いこなして、あるいは知識をそのベースにして様々なものを作り出す、そういったものが社会の中で交換され流通する場合に価値を持っていくということについては、余りそういう認識はなかったのではないかと思われます。
ところが、二十一世紀、二十世紀の後半あるいは終末の辺りからだと思いますけれども、情報社会、情報化社会というふうに言われておりまして、情報が伝達するものは知であり知識であり、そのこと自体が経済にも結び付いていくという意味で、知識社会なり知的社会なり、知の世紀ということの言葉の発端が開かれたと思っております。言わば、それは専門性の高い多様な知識とか情報というものが社会を動かしていく原動力になるという認識であるわけでございますが、特に科学あるいは科学技術の世界あるいは学術研究の世界におきましては、正に知を扱うわけでございます。
私は、そういう知の集積体である大学あるいは研究所といったようなものについて所管をしている立場から、二十一世紀を性格付ける知の世紀をリードしてもらいたいというときに使っております知というものは、やや知識社会とか知識というものとはちょっと違った面もございます。それは、ここで言いたいのは、単に知識を持っている、あるいは知識の集積体というものを大事にしていく、既存の知をよく知っている、あるいはそれらを活用するというだけではなくて、そういったものをベースによく考える。よく考え、思考をして、理解をして、さらにその上に創造というものがないと、本当の意味で世界をリードするあるいは人類の知に何か付加していく、そういうものではないのではないかと考えております。
その意味で、既存の知の集積それからそれをベースにした思考ないし理解というものの上にさらに創造を加えていく、そこのところが日本の将来にとって非常に大事ではないかというふうに思っているわけでございます。その意味で、知の世紀なり知の集積体と言いますときには、創造性といいますか、新しいものを作り出し、かつまた、あるいは実践的に行動するというふうなことも含めた意味で使わせていただいているところでございます。
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| 山根隆治 |
| 後段の部分でほっといたしました。知識ということだけにとらわれていたとすると非常に大変な問題が惹起されてくるということをちょっと心配を実はしていたわけです。
西洋人、アメリカを含めての人たちの知というものの概念と、私たちアジアの人々のこの知というものの概念というのは、私はかなり違ったものがあるだろうというふうに思っています。例えば中国から伝来してきた陽明学、これは陽明学者の数だけ陽明学があると言われるほどに様々な理解や解釈がありますけれども、しかし、例えば伝習録といったものをひもといてみると、これは仏教で言うと法華経のようなものですけれども、知行合一というのが出てくる。知識と行動というものが一致しなくてはいけないというふうな哲学でございますけれども、様々な、私は今の御答弁の中で、いろいろな示唆に富んだ御答弁ございましたけれども、この知行合一、行動ということもこの知の中の概念の中に包含されているというふうに理解してよろしいですか。
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| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 私も、単に知が何か創造的あるいは英知ということにとどまるのではなくて、何かを作り出すなりあるいは行動というものに結び付いていかないと本当の社会の中での意味ある知というわけにはいかないのではないか。もちろん、これまで長年にわたって研究が行われていろいろ解析されてきたそういったたぐいの知というものももちろん大事でございますけれども、これから必要としているのは、それに加えて行動なりあるいは実践なりあるいは何かを作り出す、そういうものに結び付いていくエネルギーとともにある知というものをこれから考えていかなくちゃならないのではないかなと思います。 |
| 山根隆治 |
| そうしますと、例えば政治家の資質として言われるのも、知という意味の中で、知情意、情とそれから意識の意、知情意という物の言い方がございます。この概念も含まれていますか。 |
| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 知というものを先ほどおっしゃいましたような形で実践に結び付けたり、何か物として化体するものに作り上げていく場合には、単に知識というものではなくて、それを作り出そうとする意欲でありますとか情熱でありますとか、あるいは将来を見通してその作り出すものというものは本当に人類のためになるかというようなことの倫理性も非常に大事だと思っております。
その意味では、本当の意味の知というのは、山根委員がおっしゃいますようなものをトータルしたようなものでないと本当にふさわしい知ではないのではないか。人の殺りくのために使われるような知であればない方がいいわけでございまして、そこのところは私は、知における倫理性というものも非常に大事ではないか。また、その知というものを、クリエーティブなものを作り出していこうという意欲、知情意ですから情意ですね、そういったものも広い意味では含まれてまいると思います。
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| 山根隆治 |
| かなり回りくどい言い方をしているかと思いますが、非常に大事な部分、私自身の認識としては大事な部分ですから、少し回りくどく言わせていただいたんですけれども、私は、今日の教育の混乱というのが欧米の知識偏重の私は犠牲になってきた部分が多々あるのではないかということで、今日の日本の教育の混乱というものの要因として私は認識をしているものでありましたから、そこの部分を掘り下げて今実はお尋ねをしたわけであります。
大平元総理大臣、党派は違いますけれども私の好きな政治家のお一人でしたけれども、大平元総理は「近代を超えて」という本を実は死後上梓されたわけです、出版されたわけです。それは、近代合理主義というのがもう行き詰まっているんだ、欧米の哲学、理念ではこれからの世界を掌理していく、ほどよく治めていくということはできないという意味合いのことを再三いろいろな書物でも書かれていたし、御発言もございました。
私は非常に大平さんが同じキリスト教圏に信奉されているキリスト教・クリスチャンでありながらそういう御認識を持たれたということについては非常に感銘を当時から受けていたものでございますけれども、これからは新しい私は理念なり哲学、東洋的なるものの哲学というものによっていかなければ日本の教育の復興ということは私はあり得ないというふうに思うわけでございまして、単なる、知の世紀という場合の知というものも、そのまま文言を引っ張ってくるというふうなことではなくて、牽強付会ということを用心しながら、私は、東洋的なるもの、あるいはアジア的なるもの、日本的なるものの中にこれからの教育の私はよすがというものを見いだしていくべきだろうというふうに思っております。
この西洋の合理主義精神というか、合理主義、近代合理主義というものについて大臣はどのように評価されていらっしゃいますか。
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| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 確かに、私どもの知識体系というのはヨーロッパといいますか西洋の合理主義を基盤としたものが主流を占めてまいったことは確かでございます。十七世紀ですか、パスカルが言いましたけれども、人間というのはか弱いアシであるけれども考えるアシであると。あるいは、コギト・エルゴ・スムというような言葉もございますし、要するに人間というのは思考ができて、そしてそういう科学的な知識といいますか合理的な知識といいますか、そういうものをどんどん究めてきて今日の科学技術の基礎ができてまいったと思います。その合理性なりあるいは普遍性なり、あるいはそこが、それが持っている様々なことを解明していく力なり、これはもう本当に知識の中核にあってしかるべきだと思います。
ただ、それだけでいいのかということになりますと、かえって今は西欧の知的な人々が、むしろ東洋に何かもうちょっとこれからの人間の在り方なり知の在り方を考えていくのに参考になるようなものがあるのではないかということで、東洋の知といいますか、そういったものへの見直しというものが出てまいっております。それは単に知識、技術というだけではなくて、あるいは科学技術という分野ではなくて、例えばデザインでありますとか建築の問題、あるいは、何といいますか、人間の心情の問題、感性の問題、風土に対する感情の問題、そういった様々なことについて東洋的な考え方、特に日本の文化というものが作り上げてきたいろんな魅力というものについて見直しといいますか、魅力を感じてきている部分があると思います。
その意味では、知識の中核面、我々のこれからの知識の中核面というのは、ああいう合理性があり普遍性があり、他のものにも転用できる、そういったものを中核にしながらも、更にそれに加えて何か足りないものがあるのではないかというときに、東洋的あるいはアジア的、あるいはもっと言えば日本人でありますから日本的なものというものが、何といいますか、示唆する深みといいますか、そういったものも加味した新たな知といいますか、そういったものに貢献できる国であるといいなと私はひそかに思っているところでございます。
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| 山根隆治 |
| こういった抽象的な論議をしていると何か雑誌の対談みたいになっちゃうので、この辺で少し打ち切りたいと思いますけれども。
大臣も、子どもの権利条約を始めとする文部科学関係のいろいろな国際条約はお読みだと思います。細かいことを聞くつもりはないんですけれども、子どもの権利条約が一九八九年十一月二十日に採択されて、日本では一九九四年四月の二十二日に批准をされているわけでございますけれども、この中で、前文の中にも「権利」という文言が非常に出てきます。「国際連合憲章において宣明された原則によれば、人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等のかつ奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎を成すものであることを考慮し、」というところにも、まず権利という言葉が出てきます。これの原文ではやっぱりライトということでございます。これを権利というふうに訳した。果たして私はこの訳し方が正しかったのかどうかということが非常に疑問を前から持っておりました。
つまり、私流に訳せば、理解すれば、これは資格というふうなことで日本語に訳した方が、より能動的なもの、思索、思考できる、考える余地のある文言になったのではないか、つまり膨らみのある言葉になったのではないかというふうに思っています。つまり、権利ということだけで終わらせてしまうと、与えられた当然の特権意識というか、そういうことで思考がそこで止まってしまうというところで義務を伴うイメージも全くないということになる。
そこに、私は日本の教育の混乱の原因の一つもこの文言の中に私自身は見いだしているわけですけれども、資格ということで訳すべきだったという私の思いについてはどのようにお考えになりますか。
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| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 大変深い示唆に富んだ御意見だと思います。 |
| 山根隆治 |
| 簡単にそうですねというふうにお答えできないお立場ですから、急な話ですから仕方がないかとも思いますけれども、私は、この子どもの権利条約ができ上がってきた背景ということを考えてみると、我が国にそのまま当てはめたときの環境というか背景が大きく違っているところがあるだろうと。
つまり、我が国のように衣食住に全部恵まれ、自由に恵まれという成熟した社会の子供たちをイメージしたというよりも、労働を子供たちが強要されて教育の機会も与えられない、そういう子供たちあるいは少年少女の、子供の、少女の売春等で苦しむ、そういう世界の子供たちの権利をどう守るかということで私はこの条約というものは作られてきたというふうに私自身は背景としては理解をいたしております。
したがって、無制限に子供の権利を拡大するための私は条約ということではなかったというふうに理解をしているわけでございますけれども、この点についての見解も更にあればお聞かせください。
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| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 私は、あれは去年、おととしでございましたかね、ニューヨークで国連の子供サミットというのがございまして、ここに出ました。そのときに、各国の代表、子供たちも含めましていろんな発言がございましたけれども、それは、いかに子供たちが飢えに苦しみ、あるいは圧制に苦しみ、そして学ぶこともできない、何とか日本は助けてくれという声をたくさん聞いたわけでございます。それは、もう日本の子供たちが置かれている状況と、そういう希望を持っている国々とは全く違うわけでございます。私は、子供宣言といいますか、子供サミットで接したその悲痛とも言える声というのは、今もアフガニスタンの子供たちがそうであり、これからのイラク等で起きる事柄、あるいはアフリカの国々、もうこれらは本当に、いかにして生命を維持するか、学校へ行けることが本当に夢である、そういう子供たちの悲痛な状況をどう救っていくかということであろうかと思います。
私も委員と同じような感想も持つわけでございます。日本のように恵まれた条件、本当にもう生まれ出たときから豊かであるような子供たちに、むしろライトといいますか、そういったことばかりではなくて、必ず権利には義務も伴う、そして、自らのことだけに、自らの満足のため、快楽のためだけではなくて、いかに社会とか国とかあるいは地域とか、他者のために自分が貢献できるかということについて考え得る、日本はそういう社会であるなとつくづく思った次第でございます。
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| 山根隆治 |
| いつか機会を見て、この子ども権利条約の日本語訳というのは政府がやっていたものだと理解しています。したがって、私は、しかるべき時期にこの訳について御検討をされてしかるべきかと思いますけれども、いかがですか。 |
| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| これは、ライトという言葉を権利という日本語に置き換えて日本語を定着させた福沢諭吉にまでさかのぼるわけでございまして、また政府の定訳ということも出ているわけでございます。
私は、そういうことも、もちろん委員の御発想もよく分かるわけでございますが、訳を改めるあるいは見直すといいますよりは、本当にその条約で書かれているというものが一体何であるのか、あるいは日本に当てはめた場合にどういうふうに考えたらいいのか、そこのところをしっかりと議論していく、そのことが非常に大事ではないかなと思うところでございます。
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| 山根隆治 |
| もう一つ、国際的な宣言で世界人権宣言がございます。そこの第一条に、すべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利とについて平等である、人間は理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならないという文言がありますけれども、これは私は、キリスト教圏における平均的な哲学というものが表されたものであって、我が国の伝統的な理念とは少し違いがあるのではないかというふうに私自身は思っております。
つまり、人間は理性と良心とを授けられておりということで書いてあるわけでございますけれども、私たち日本人は、理性というものは育て上げるもの、作り上げるものだ、子供のために、という理解を日本の伝統的な感覚として私はあったというふうに思うわけでございます。ところが、キリスト教の影響もかなりあってこの文言が書かれているはずですけれども、それは天から、神から授けられた、最初から理性があるんだというふうなことがここに述べられているわけですね。
昔、私も中学時代でしたですか、教科書だか参考書で見たのは、インドで、戦前ぐらいでしょうか、オオカミ少年が発見されて、そのオオカミに育てられた子供を何とか人間に復活させよう、戻そうということで様々な試みを見たけれども、しかし、全くオオカミと同じような生活態度というか生き方というのは変わることなく命を全うしてしまった。つまり、最後まで人間の言葉を話すこともできず、人間の行動様式を取ることもできず、表現もすることができなかったということを、私も自分自身が中学生ぐらいだったと思いますけれども、見たことがございます。写真を見、そして文言も読んだことがございます。
そのことを今話しながら思い出したわけでございますけれども、やはり先ほどの権利ということを、例えばヒューマンライツということでも、これを私、人権というふうにこの中でも訳しているわけでございますけれども、ここに私は、権利ということでのやっぱり誤解、あるいは傲慢な人間の感情というものを少し生ぜしめてしまったものはないんだろうかということが非常に危惧を、私は前から持っていたわけでございまして、言葉一つの問題でありますけれども、本当に多くのいろんな問題がこの中にもある。この点についてのお考えもございますか。御表明いただける御見解があれば聞かせてください。
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| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 正確にお答えしますにはその世界人権宣言というのを十分読みこなして、英文といいますか、元となる文章と日本語というものを照らし合わせる必要があろうかと思いますので、正確な答弁というのはこの際できないわけでございますけれども、私は、世界人権宣言が出されたときの世界の情勢、それから各国の状況を見ますと、これはやはり一つの理想を明記したものではないかなと思います。西洋的な考え方、理性ないし自由なりといったようなものの押し付け的、あるいは与えられたものという考え方もございますけれども、やはり民主主義であるなりあるいは自由、平和といったような今の日本の憲法の根源になっているような部分について、私は、各国、これは理想として各国の体制の中に作り上げていくべきものだと考えておりまして、その上に立って、それぞれの国の特色、あるいはそれぞれの民族の形成してきたいろんな文化なり伝統なりというものを加味して、一体どのような成熟社会を作っていくかということこそがそれぞれの国のあるべき目標の取り方ではないかなと思っているところでございます。
どうも十分な回答でないかもしれませんが、そのように思います。
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| 山根隆治 |
| 本当に日本をもう一度よみがえらせていく、そして子供たちの教育というものをもう一回しっかりと考え直していく、立て直していくということについては、やはりもう相当なところまでさかのぼって、あるいは掘り下げていかないと、この国の教育というものは私はもう立て直すことができなくなるという思いが非常に強くするわけです。
ですから、皮相というか上っ面の措置では、びほう策ではもうどうにもならないところまで来ているので、哲学的なところあるいは宗教的なところまで掘り下げて、行政のトップにある遠山文部大臣の立場でそこをもう少し、もっと思索を深めていただいて、かじ取りを是非お願いしたい。この点についても要望をしておきたいと思います、時間ばかりちょっとたってしまったので。
それでは次に移らせていただきたいと思いますけれども、過般、三月の九日でしたですか、広島県尾道高須町の市立の高須小学校の慶徳和宏校長先生が自殺されたというニュースがございまして、非常にショッキングなニュースでございました。
この校長先生は、文部省の新しい方針にのっとり、民間から民間人として教職に就かれたわけでございますけれども、非常にいろいろな方々から期待をされ、御本人も意欲に燃えて校長の職に就いて、わずか一年ほどですかで自殺をされて、自ら命を絶たれた。悲惨なニュースでございましたけれども、なぜ自殺に追い込まれたのか、把握されている情報をお聞かせください。
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| 政府参考人 矢野重典氏 |
| 広島県教育委員会からの報告によりますと、メモが二通残されておりまして、一つは、能力のない者が校長になって、たくさんの方々に御迷惑をお掛けすることになって本当に申し訳ございませんというものでございました。もう一つは、これは御家族にあてられたものでございまして、御家族へのお別れの言葉などが記されておりまして、他の方を批判するような内容ではなかったとのことでございます。
残された遺書といったような性格のメモでございますが、そういうものが残されたわけでございますけれども、この自殺の背景、理由等につきましては、現在、広島県教育委員会におきまして調査をしているわけでございますが、現時点ではその原因や背景等につきまして十分把握ができていないというふうに聞いておりまして、広島県としては、去る十三日に尾道市立高須小学校問題調査委員会というのを設置いたしまして、原因の究明に取り組んでいるところ、取り組んでいるというふうに聞いているところでございます。
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| 山根隆治 |
| 新しい、報道されていない事実というものが今の答弁で出てまいりました。つまり、二通の手紙、能力のない者が校長になり、たくさんの方に迷惑を掛けた、そういう言葉については各社報道がございましたけれども、もう一通がよく私も分からなかったんでお尋ねしたかったんですが、御家族の皆さんへのお別れの言葉だったということで、そこからは、手紙から、遺書からは、自殺の直接的な原因となるようなことは書かれていなかったというふうな理解でよろしいんですか。 |
| 政府参考人 矢野重典氏 |
| はい、そのとおりでございます。 |
| 山根隆治 |
| なおのこそ、この校長先生のお人柄というものがにじみ出た遺書だなという感想を私は持ちます。
文科省の方で民間校長を採用するという方針を出された背景について、あるいはそのねらい、民間の校長先生には何を求められて大きなかじを切ってきたのか、このことについてお尋ねします。
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| 政府参考人 矢野重典氏 |
| これは平成十二年の四月一日から施行された新しい制度でございますが、校長の、これまでの校長の資格要件を緩和をいたしまして、緩和したものでございますけれども、この趣旨は、組織的、機動的な学校運営を行うことができる資質を持つ優れた人材を確保するということでございまして、特に学校以外のところから幅広くそうした人材を確保するということをねらいといたしまして、校長、教頭も含めてでございますけれども、資格要件の緩和を図ったところでございます。
その場合の大きく期待をいたすところは、今日の学校運営にとりまして、学校をマネージするという、マネジメント能力ということが今日の学校運営にとって大変大事な資質であり能力であるということがあるわけでございまして、私どもとしては、そうした能力を備えた人材を幅広く、学校以外も含めて幅広く確保したいということでこういう制度を新たに作ったものでございます。
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| 山根隆治 |
| 管理能力に期待されるということでございますけれども、学校にもそれぞれの学校の歴史がありますし、教育界にも様々な文化というものがある。それを理解した上でないと、私は、校長の職責を全うするというのは非常に難しいものが実はあったんではないかという思いがいたします。
民間のセンスというものを学校の管理、運営の中で生かそうということはだれしも思い付くところでもありましょうけれども、しかし、いきなり民間の企業で身に付けた管理能力をもってその学校の運営に当たるということについては、知っておかなくてはいけない様々な私はものがあったはずであろうと思います。
この慶徳先生の場合には、二日間の研修でしかありませんでしたね。新聞報道で見ると、労働組合の方もこれはもう短過ぎる、少な過ぎるというふうな指摘もされております。私も、これは本当に短過ぎるなというふうな思いがいたします。
どのような学校で、どんな文化が、学校文化がその中にあり、どんな環境なのかということを理解していただくのには、いきなりほうり込んで、後はあなた、民間の経験を生かしてやりなさいということにそもそも私は無理があったのではないかという気がしてなりません。法律的なこと等とか上っ面のことは説明し得ても、私はやはり、ある程度一定期間例えばその学校に入って、野球の原監督や王監督じゃないですけれども、副監督をやったりコーチをやったり、いろいろな人間関係を作り上げ、信頼関係を作り上げ、その上で入り込む、校長の任に就くということであれば受け入れられもしたろうし、自分自身の思いというものも時間を掛けて私は発揮することができたんではないかというふうに思うわけでありますけれども、この校長、民間の校長というものを学校の中に派遣するというか投入する、投入というか、人ですからちょっと言葉、表現難しいですけれども、採用される場合には、私は一定の校長への教育、カリキュラムというものをしっかりしたものを作って、そして現場での経験ということを積ませる必要があるというふうに思うんですけれども、この点についてはどのようにお考えになりましょうか。この事件からの反省を聞かせてください。
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| 副大臣 河村建夫氏 |
| このたびの慶徳校長先生の、自殺でお亡くなりになったと、大変痛ましいことでありまして、残念に思っておるところでございます。
今、委員御指摘の点は、私、非常に重要な点だというふうに思います。
就任に当たっては、やはりその学校の特性といいますか、やっぱり任命する側の方といいますか、教育委員会にお願いをしておるわけでありますが、どういう目標を持ってどういう点をマネージしてもらいたいというようなこともやっぱり必要だろうと思います。今回のケースについては、確かに十分なその点が少なかったという指摘がございますが、大いに反省すべき点だろうと思います。
それぞれの各委員会が御判断をいただくことではございますけれども、やはりその方のこれまで積んでこられた経験、この先生の場合には銀行でございます。銀行というのは非常に組織的にもきちっとしたところでございますから、そういう方が、学校現場というのはどっちかというと先生一人一人が個が確立しているといいますか、組織的に動くというよりも、むしろそれぞれの個々の先生がやっておられるという面もございます。その辺の違いもあったんじゃないかと私は、私自身そういうふうに感じるわけでありますが、そうした、その人が持ってこられた経験や知識を踏まえて配属校や地域の状況を踏まえた適切な研修をやる必要がまずあるだろうということ。
それから、校長先生に対しては教頭先生が非常に頼りになるわけでありますが、そういう方には特に豊富な、経験豊富な教頭先生がおられるということも必要ではないか。この先生の場合には、大変不幸なことに、二人の先生が次々と病気になられたという、これも非常にまた不幸であったと思うのでありますが、そういうことがございました。そうした校内体制を、きちっと受入れ側の整備をすることが必要であろうということ。
それから、いわゆる社会人として入られた校長先生がどういうふうにされているかということをウオッチするというとあれでございますが、相談に乗れるような形のもので指導主事の方を派遣をして、きめ細やかに御相談に乗りながら、うまくいくようにバックアップすると、そういう体制が必要ではなかったかなと、こうも思っておるわけでございます。
文部科学省といたしましては、広島県教育委員会の調査結果というものを十分踏まえて、これからの民間人校長の研修の在り方、あるいは教育委員会の支援体制において更に改善すべき点、配慮すべき点があれば、これを踏まえてしっかり指導してまいりたいと、こう思っておりますし、必要に応じて、他の教育委員会におきましても民間人校長の登用に当たっては十分な配慮がされるように働き掛けてまいりたいと、このように思っております。
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| 山根隆治 |
| この慶徳先生は、今お話ありましたように、教頭先生お二人も病に倒れられて、そして御自身もうつの状態にもなられていたようですよね。そして、教育委員会にその自分の思い、現状というものを訴えられて、転校ということも希望されている。しかし、とにかく頑張ってもらいたいということで叱咤激励されて、逆にそれがもう追い詰められていくということにもなったんだというふうにも思っています。
今、調査を待ってということでございますけれども、教育委員会を中心とした調査ということになれば当事者の調査ということになるわけですから、私は、これは第三者という者を入れた調査というものをしっかりやっぱりやっていくべきであると思いますね。
平成十四年度、今年度までに民間の校長先生は二十三人、来年度はそれが倍以上になって五十人になるということでございます。この事件を契機にいろいろな民間から登用された校長先生の談話等、記事というものも私も新聞等で読ませていただきましたけれども、やはりみんなそれぞれ非常な困難というかを乗り切っておられるし、苦労が、今までしてきた、民間で重ねてきた苦労と種類が違うものだというふうな思いをそれぞれの皆さんがお持ちになっておられるようでございます。
ですから、私は、もう来年度から倍に、五十人にもなるということであれば、この事件をきっかけとして、ほかの学校に赴任されている校長先生からのいろいろな現場での苦しみとか悩みとかあるいは喜びとか、そういうものも、プラスもマイナスも全部一度お聞きして、アンケートというか、人数がそんな多くないわけですから面談して、調査して、いろいろな知恵、経験というもの、この短い期間でありましたけれども、それを私は集約して来年度から是非生かしていくべきだろうと思うんですけれども、今のところ新聞報道等で見る限り文部省にそうした動きというものを私は承知していないんですけれども、今現在、民間の校長先生、赴任されている皆さんからのいろいろな知恵なり経験なりアイデアなりをいただくというおつもりはないのかどうか、お尋ねします。
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| 政府参考人 矢野重典氏 |
| 民間人校長の登用に当たりましては、今回の不幸な事件を契機として、私どもとして、採用の問題それから研修あるいはそれを支える支援体制といったようなそういう問題について、各教育委員会において相当の配慮をしていく必要があるというふうなことを改めて認識をいたしたところでございますけれども、その際には、先ほど副大臣からも申し上げましたけれども、現在、この事件につきまして、詳細な原因究明について広島県教育委員会で調査研究を行ってございますので、私どもとしては、そうした検討の成果等も踏まえながら、かつまたこの機会に民間人校長の登用に当たっての様々な課題や問題につきまして私どもなりに研究をいたしまして、そうしたことを踏まえて、他の教育委員会に対して民間人登用に当たっての十分な配慮が行われるような必要な指導ということについて検討してまいりたいと考えているところでございます。 |
| 山根隆治 |
| いやいや、私の伺っていること、提案に答えていないんですけれども。つまり、今、民間の校長先生も赴任されているんだから、それらの先生から直接お話を聞くべきだということを私は提言しています。その答えを下さい。 |
| 政府参考人 矢野重典氏 |
| 御提言の趣旨はよく分かりますので、そうしたことも含めて、どのような各県に対する取組の指導を行うかということについて検討をいたしたいと思います。 |
| 山根隆治 |
| 何ばかなこと言っているんですか。そういう抽象的な、官僚的というか、優秀な人もたくさんいますけれども、答弁が優秀でもしようがないのでね。今のお話は、そういうことも含めてじゃなくて、そんな即座に、現場が一番大事なんですよ。ですから、いろんなところから、広島県の教育委員会から話を聞きます、研究者から話を聞きますということじゃなくて、一番学べるのはやっぱり現場なんだから、現場で苦しんでおられる校長先生から話を聞いて、それ生かすのは当たり前のことじゃないですか。なぜそれが抽象的な文言で逃げているんですか。 |
| 政府参考人 矢野重典氏 |
| お言葉でございますけれども、民間人を校長として採用し、また具体に配置して、そういう意味での人事について責任を持って行っておりますのは、それぞれの都道府県の教育委員会でございます。そういう都道府県の教育委員会から私どもとしては必要な情報なり、また意見を聞きながら、先ほど申し上げましたような形での指導の対応について検討いたしたいということでございます。 |
| 山根隆治 |
| 間接的な情報では、本当、生の情報じゃないと、いろいろと事実認識が間違ってくるんですよ。これはやっぱり直接聞いて、悩みなり喜びなり、そういうものを聞いたらいいじゃないですか、そんな、当たり前の話でしょう。
これは、政治家たる遠山文部大臣から御答弁願います。
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| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| 確かに、民間の方が学校に入られて、今回は本当に不幸な事件でございましたけれども、良い面もあると思います。
良い面、悪い面、それぞれの人々がどのような経験をなさっているかということを聞くということも大変大事だと思います。よく検討してみたいと思います。
これまでの行政手法でございますと、それぞれの教育委員会でしっかり情報を集めてもらってということでございますが、委員の御提言というもの大変意味があると思いますので、検討してみたいと思います。
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| 山根隆治 |
| ありがとうございます。それは是非ひとつ、前向きなお答えだと思いますので、いろいろな検討ありますけれども、前向きな今検討だというふうに理解をして、この問題、是非進めていただきたいというふうに思います。
それから、先ほどちょっと一つ聞き落としたのかも分かりませんけれども、校長養成のカリキュラムを文科省の方で作られるというふうな報道もあったかと思います。この点はどの程度進んでいるんでしょうか。
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| 政府参考人 矢野重典氏 |
| これは、民間校長の研修のカリキュラムということでございますでしょうか。
そのことにつきましては、まず研修につきまして、私どもとして一定の、例えば教職に関する専門的な知識等についての一定期間の研修ということが重要であるということを私どもは改めて認識をいたしているところでございますけれども、そのことにつきまして、国として画一的な例えば研修モデルといったようなものを示すということよりも、これはそれぞれの教育委員会においてそれぞれの実情においてよく考えていただく、中身について考えていただくことがより適切ではないかというように考えております。
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| 山根隆治 |
| 余りにもあれですね、すっきりしないんですけれども、ちょっと時間がもうなくなってきまして、コミュニティースクールの問題、それから不登校の問題等もお尋ねしたいと思っておりましたけれども、時間がちょっとたってきて、非常に消化不良になって残念なんですけれども。実はそれらの問題についてはまた別の機会に是非お尋ねをさせていただきたいと思いますけれども。
私は、選挙区が埼玉県なものですから、宿舎には毎日泊まっておりません。過般、久々に宿舎に泊まりましたときに、その宿舎に緊急の請願書というものが入っていました。
これはどういうものかといいますと、東京大学系の国語学者に覚せいを促すための請願ということでございまして、読んでみると余り請願には少しなじまないものかなというふうな思いがいたしましたので、請願者の方にお電話して、これは国会への請願ということについては少しなじまないと思うというふうなお話をさせていただきましたらば、これはまだ請願として出していませんし、じゃ出しませんと、こういうことでございました。しかし、その請願の内容を読んでみると、非常に私、興味そそられたというか、非常に大きな意味のある請願だったかなというふうな思いを実はいたしました。
つまり、国語辞典や古語辞典というものが根本的なところで少し違っているという指摘でございまして、私も専門家ではありませんので細かいことは分かりませんけれども、幾つかの指摘があるところを見てみると、なるほどというふうな思いが実はいたしました。
例えば、雨が降るかしらということの意味というのは、今の多くの辞典では「しら」と、終助詞ですけれども、それは知らぬの「ぬ」が落ちたものだということに一応なっております。つまり、雨が降ったかどうか分からないと、こういう意味ということが解説としてはあるんですけれども、しかし、この方の指摘ですと、全く違った研究成果を述べられております。つまり、「かしら」の「か」というものについては何という字ですね、何者の何。それから、「しら」というのは漢字の諮問の諮だという理解で、これは、降るかどうだろうかねと、こういう意味だと。つまり、「しら」というのは、上の者が下の者にどうだろうかということを問う、そういう意味合いだということでございまして、雨が降るかしらということの意味というのはかなりやっぱりこれだけでも違うというのがよく分かりますけれども、これが、一か所や二か所じゃなくて、本にしてこの方研究されておられますけれども、非常に多くの根本的なところで今の辞典への疑問というものを呈されております。
中央教育審議会の答申書の概要というのを実は昨日党で勉強させていただきました。文科省の担当官からいろいろとお話を聞かせていただきましたけれども、その中で、「二十一世紀の教育が目指すもの」という中で、「日本の伝統・文化を基盤として国際社会を生きる教養ある日本人の育成」ということを書かれて、大きいタイトルとして掲げられているわけでございますけれども、この日本の伝統、そして文化の基礎として、基盤としてというその基盤にとって一番大事なのは日本語、言葉でございますけれども、その言葉が、私たちの理解が違ったところで我々理解していたんだとなると大変な問題というのを惹起することになるわけでございまして、これは非常に私にとってもカルチャーショックでもございました。
ここはもう学会でもありませんし、私も専門家ではないので細かい論議はする時間もありませんし、その場でもございませんけれども、こうした草莽の、民間の方々の研究の助成ということについてはこれほどな問題提起というのはないと、大きい問題だというふうに思うんですけれども、これら民間の方々へのこの研究への助成というか支援というか、そういうものについては文科省としてはどのようにお考えになりましょうか。これは一般論でも結構でございます。
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| 副大臣 河村建夫氏 |
| この方の請願書を私、実はこの十一月にお出しになったときにはもう衆議院の委員はやめておったものでありますから、副大臣に入っておったものでありますから気が付きませんで、山根先生の御質問があるというのであの本もちょっと拝見をさしていただきまして、よくまああれだけの膨大なものを研究されたんだなと思って本当に感心をしたのでありますが、ただ、この詳細は私もよく分からないものでありますから、これからこれをどういうふうな形で取り上げるかということになると、いろんな学者の皆さん方がどういうふうにされるか、あるいは学会等がこれをどういうふうに見るかというようないろいろなことがあろうかと思います。
しかし、これは文化庁が国語の問題については文化庁の審議会等々でもやっておるわけでございますが、そういう注目されるような研究については、調査審議等においてこれについて研究をしていただく。そして、これがもう日本の国語そのものを根本から変えていくんだというようなことになれば、それによって更に配慮をしてそれを支援をしていくという方向もあろうと思いますが、現時点では、今文化庁では、先ほど御指摘ありましたように、国語の重要性というものにかんがみて、文化審議会の国語分科会を中心に国語の改善、普及を進めてきておるところでございまして、独立行政法人の国立の国語研究所が国語に関する研究に今鋭意取り組んでおりますから、そういうところでもこの研究がどういう意味を持つのか、またこの方が言っておられることについてどういうふうに考えるのかということは、私は是非研究してもらいたいと、このように思います。
冒頭御指摘ありましたように、国語というのは、やっぱり日本人にとってこれはもう日本の意思疎通の手段であると同時に、長い歴史、日本が作ってきた長い歴史で、正に国の文化の中心を成すものでありますから、この先人の皆さんが築いてきたこの伝統文化といいますか、これをやっぱり理解をして、日本人が豊かな感性、感情を備えていく、幅広い知識や教養を持つ、この国語が正に中心であります。今、英語教育のこと等もいろいろ言われておりますけれども、やっぱりそれをちゃんと習得するためには、まず国語がきちっと習得されなきゃいかぬということを私は当然のことだろうというふうに思っておりますので、山根先生がこの本をごらんになって、やっぱりこれ、ここまで研究されたことに対して、それをそのままにせずにやっぱりいろんな角度から考えていくということは必要だろうと思いますし、また民間の方々の研究に対しても、そうした大きな研究に対してはいろんな支援をこれまでもやってきておるわけでございまして、この研究されたことの位置付けというものがある程度はっきりしてくれば支援の方法もあるんではないかと、このように思います。
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| 山根隆治 |
| いや、それは順序が違うんですよ。その研究の是非ということを我々は深入りするべきじゃないんじゃないかというふうに私自身は思うんですね。それが是か非か、それが正当なものなのかどうかという判断は行政がやっぱりするべきじゃないんで、それはもう学会に任せればいいわけですよね。それが何とか審議会の意見を聴いてということになると、何とか審議会もほとんど東大が多いんでしょう。やはり、学会でも東大と京大の対立というか流れというのもあるし、だから、それは研究に対してもっとしっかりとした研究の助成措置を取るということがやっぱり大事なんで、そのジャッジを国の機関に求めるというのは少し、ちょっとおかしい、筋としては私はおかしいというふうに思います。
例えば、奄美大島で半生を送った田中一村という画家の方がおられますけれども、非常に、東山魁夷なんかと同級生で、美大で一緒だったんですけれどもなかなか認められないでいましたけれども、しかし死後、非常にその絵というものが、奄美の自然をかいた絵というのは感動を与えて、今美術館も奄美の方ではできているという話を聞いています。
つまり、公のところから、主流のところから認められる、認められないということではなくて、その業績に対して素直にそれを支援していく、その事業に対して支援をするということで結果を見るということが大事なんで、そこは少し順序が逆だと思うんですけれども、いかがでしょうか。
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| 副大臣 河村建夫氏 |
| 私はちょっと舌足らずの面があったと思いますが、これは国の機関に掛けて調査をしてという意味じゃなくて、むしろ委員が御指摘のように、いわゆる一般の研究、こうした研究が出たことに対してどう取り上げていくかということであろうと、私もそういうふうに思います。
ただ、こういう研究というのはいろんな研究があるものでありますから、どれをどういうふうに取り上げるかというのもまた難しい問題でもございましょう。しかし、いろんな研究に対してはそれを取り上げて研究がうまく進むように支援をしていくということは、これは文化庁もいろんな形でやっておるわけでありますから、今の御指摘の点を十分踏まえて対応をいたしたい、こういうふうに思います。
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| 山根隆治 |
| 私もこの方の生き方というか生きざまというものを見ていて、すごい迫力というものを感じました。一つは、会社、出版社をつぶすぐらいに思い入れして、時間も財産も全部費やしてやってこられたというその姿勢というか生き方というのに非常に今感動を実はしたわけでございまして、これほどまでに国の行く末というものを考えておられる方というのはそうなかなかないだろうと。つまり、自分の財産を何億も捨てて、つぎ込んで研究するなんという人はなかなかいるもんじゃないですよね。私は、その内容が、ジャッジするということではなくて、その研究、そういう姿勢に対してはそれなりのやはり助成の措置というものを取っていく。しかも、それが国の根本を揺るがすような、文化というものを大きく揺さぶるようなもの、あるいは日本人の伝統というもののすばらしさをより一層理解させられるようなそういうものの研究なわけですから、本当に日本人に自信を取り戻させるようなそういう研究の内容に私はなっていくんだと思いますので、是非この点について御検討をいただきたいと思います。
最後に大臣、この問題についてちょっと感想を聞かせてください。
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| 国務大臣 遠山敦子氏 |
| いろんな研究の立場があって、それぞれが濶達に研究されるということは私は学問の発展にとっては非常に大事だと思います。ちょっと個別の面については私はよく存じ上げておりませんけれども、そういういろんな角度のいろんな知の濶達な作用の成果というものが本当に私は大変大事だという点で、委員の御指摘に賛同するところでございます。
ただ、その助成の在り方等につきましては、ふさわしい方法があるかどうか検討させていただきます。
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